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ガレーヂ伊太利屋では、培ってきた歴史を活かし、海外のスペシャルショップとも連携しております。本国の職人によるレストアや、特別な車両のご案内が可能です。
あまり知られないランチアの名車 D24をご紹介。
1950年代半ばになると、ランチアはスポーツカーレースとグランプリレースの両方で強さを発揮するようになりました。これは、ヴィンチェンツォ・ランチアの息子であるジャンニが、この時期にランチアのディレクターに就任したことが大きな要因となっています。ジャンニはヴィットリオ・ヤーノにランチアD50 F1カーとスポーツカーレース用のD24を設計させました。
ヴィットリオ・ヤーノと少人数のチームは、早くも1952年にD20と呼ばれるランチアの新しいスポーツカーの開発に着手しました。1953年のミッレミリアでは、最初の5台がダークブルーとホワイトのカラーリングで登場。ピニン ファリーナが手がけたクーペボディに、デュアルオーバーヘッドカムシャフトを採用した245bhpのツインスパークV6エンジンを搭載したこのモデルは、アウレリアよりも明らかにスポーティなものでした。ミッレ ミリアでは2台のマシンが総合3位と8位に入賞しています。その後、ル・マンに向けてスーパーチャージャーが装着されましたが、コックピットが高温になったため、スーパーチャージャーは廃止され、車両はスパイダーに切り換えられたのです。D23と名付けられましたが、これはD24までのつなぎとしての存在でした。
D24は1953年に発表され、1953年と1954年のシーズンに参戦していました。マルチチューブラーフレームのシャシー、ダブルウィッシュボーン/ド・ディオンサスペンション、トランスアクスルトランスミッション、バルケッタボディという先代の全体的なレイアウトを踏襲しつつ、優美なボディに3,284ccのV6エンジンを搭載。265ps(198kW)を発揮し、最高速度は260km/hに達します。1953年のカレラパナメリカーナでファン・マヌエル・ファンジオが、1954年のミッレ ミリアでアルベルト・アスカリが、1954年のタルガ・フローリオとジーロ・ディ・シチリアでピエロ・タルッフィが、それぞれ総合優勝を果たすという栄光を残しました。こうしてランチアの最も重要なスポーツカーとなったのです。
1955年には、D24はアルゼンチンのペロン大統領に贈られ、ペロン大統領はブルーとイエローのナショナルカラーをまとって国内レースに参戦していました。1980年代にイタリアに返還され、ヴィットリオ・ザノン伯爵によってレストアされました。オリジナルは6台製造されたといわれますが、1955年以降ランチアは残っていた車をスクラップしました。しかし、グイド・ロザーニは、2台のD24エンジン、1台のD25、1台のD20を保存することに成功し、90年代にはファクトリーが正式に認めた4台のレクリエーションモデルを、ロザーニがルチアーノ・バッソの協力を得て製作しました。それから、1台のD25をミュージアムに提供しています。
あまり見ることも聞くこともない一台ですが、ランチアが築いてきたユニークな歴史を感じさせられます。
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ランチア フルビア スポルト ザガート 1.3S デイトナ仕様